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書評

森元孝著『フリードリッヒ・フォン・ハイエクのウィーン――ネオ・リベラリズムの構想とその時代』

新評論、2006年、255頁、2,800円+税

『社会学評論』Vol.58, No.2, 256-257頁.

橋本努(北海道大学大学院准教授)

 

 

 話題となった大著『アルフレート・シュッツのウィーン』に続いて、著者の森元孝氏が取り組んだのは、経済学者ハイエクのウィーン。シュッツとハイエクはともに、20世紀初頭のウィーンに育ち、大学生の時分には「ガイストクライス」という勉強サークルで議論した仲であった。ウィーンの文化的・思想的な豊かさを、今度はハイエクの観点から見るとどのように描くことができるのか。本書は、偉大な経済学者・社会哲学者ハイエクの学説を、ハイエクの生きた生活環境や時代背景を丹念に調べながら描いた力作である。手法としては正統な経済学説史研究のアプローチを用いており、人脈・時代背景・文化的コネクション・学説内容などの関係を生き生きと再構成している。

 第1章では、ハイエクの過ごしたウィーンの街並みが写真とともに紹介されると同時に、ハイエクが大学在学中に書いた心理学の論文「意識の発生論に寄せて」や、博士論文「帰属論の問題設定に寄せて」などが検討されている。博士論文というものは、往々にしてその時代の有名な学者たちの研究に対する「若き学者の対峙と勇気」を示すものである。著者はハイエクの博士論文から、その時代の知的確執と緊張感をスリリングに読みとっている。第2章では、ハイエクの景気循環論が詳しく紹介され、その後のハイエクが、なぜ理論経済学の発展を断念したのかについて、著者の知見が述べられる。第3章では、30年代のウィーンにおいて、ハイエクがミーゼスを批判するかたちで自らの経済哲学を構想していく過程、そしてまたそこに居合わせたシュッツが、いかにしてオーストリア学派の経済理論から自らの「レリバンス理論」を構想していったのかについて、学説史的に論述されている。

4章では、こんどはウィーンを離れて、イギリス、そしてアメリカへと移住したハイエクの理論的成果が検討されている。主として『感覚秩序』と『哲学・政治・経済学の研究』を紹介しつつ、ハイエクの自生的秩序論の理論的エッセンスがつかみ取られている。第5章では、ハイエクが創設した「モンペルラン協会」やドイツのオルドー学派、あるいはケルゼンとの関係において、ハイエクの『自由の条件』の内容が検討されている。そして何よりも面白いのは第6章である。ハイエクは60歳をすぎてから、実は、ウィーン大学に招聘されていた。ハイエクは結局、フライブルク大学に移ることになるのだが、彼の異動をめぐる手紙のやり取りのなかから浮かび上がってくるのは、彼がかなりの蔵書家であり、とりわけ18世紀や両大戦間期の蔵書を誇りにしていたという点だ。ハイエクは結局、蔵書移転の費用その他をめぐって好条件を提示してくれたフライブルクに移ることにした。ウィーン大学は最終的に、ハイエクの住居費用についてはオーストリア産業連盟が負担することも約束したが、しかしフライブルク大学は政府と産業界が一体となって、ハイエクにもっとよい条件を提示したのであった。

おそらくハイエクが、70歳代にして最高の主著となる『法・立法・自由』を書き上げることができたのは、彼のすぐれた蔵書収集力によるところが大きいのであろう。ただしその後、ハイエクは蔵書とともにザルツブルク大学に移ることになるが、ザルツブルク大学では蔵書を自由に使えることができず、それと並行して、ハイエクの思考力も衰えていったようにみえる。

なお、つづく本書の第7章では、貨幣発行自由化論が紹介され、そして短い終章をもって本書は終わる。惜しむらくは、ハイエクの全体像をどのように評価ないし描写するかという問題が、本書において検討されるべきであったかもしれない。しかし本書の魅力はまさにウィーンの文化的魅力に根ざしており、ウィーン研究の一部として、ハイエクが描かれている。各章の扉には、たとえば、ウィーン大学中庭のオーストリア学派三教授の像や、オーストリア学派のたまり場となったカフェ「ランドマン」などの写真が紹介され、読者はこの分野の背後にある文化的資源に思いをはせるであろう。